信仰について2(信仰についての一般的解釈と聖句から教えられること)
コトバンクに掲載されている日本大百科全書の「信仰」の解説(担当筆者は藤田富雄氏)の項には、次のように記されています。
“〔信仰とは、(筆者挿入)〕神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。
〔信仰とは、(筆者挿入)〕経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。
宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。
信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。”
上記の説明は、一般的日本人にとって分かり易いものであると思います。
聖書は、どの神がまことの神なのか、
ということを啓示し、繰り返し教え、またその神は、神の民にヤハウェ(主)という神がおられることを経験させるということを行ってきたことを記しています。
創世記1章では、聖書の神こそが、創造者であり、他のものは、被造物である、と述べています。
創世記2:4には、“これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主〔主なる神(口語訳、新共同訳)、神である主(2017、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)〕が、地と天を造られたときのこと。”(2017)と記され、
創造者なる神について、「主」というお名前を明らかにしています。
ここの「主」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ヤハウェ」です。
創世記2:4において、既にヤハウェのお名前が明らかにされていることに、私は感銘を受けます。
「ヤハウェ」のヘブライ語を英語のアルファベットで表記すると、“YHVH”となります。
VはWとしても使います。
それ故、“YHVH”に母音記号をつけたときのつけ方と、Hは伸ばす記号としても機能しますので、その読み方は、ヤハウェ、orヤハヴェ、orヤーウェ、orヤーヴェ、orイェホバ、orエホバ、等と読むのではないだろうかと考えられてきたようです。
私は、岩波訳聖書の翻訳に従ってこのブログでは「ヤハウェ」として書いています。
「神である主」or「主なる神」と訳されている語の原語は、2語で「ヤハウェ エロヒーム」とあります。
エロヒームは、神の複数形です。神は本質においては唯一であられると共に3位のお方です(三位一体)。
マタイ28:19には、“the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”{父と子と聖霊の御名(「名は単数形」)}という箇所があります。
出エジプト3:13-15には次のような記述があります。
“13 モーセは神に言った。
「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。
「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。”(2017)と記されています。
ヤハウェは、「わたしはある」という者、と自己紹介しておられます。
これは、永遠にして自存であることを表していると思います。
ここまでで、ヤハウェは、永遠にして自存の神であられ、万物の創造者であられることが分かります。
話は変わりますが、
イエス様が、十字架にかかられる前、祭司長たちがイエス様を逮捕しにやって来た場面がヨハネ18章に次のように記述されています。
“3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
7 イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
8 イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」”(2017)と記されています。
「わたしがそれだ」(5.6.8)と訳されている語句のギリシア語原語は、「エゴ― エイミー」です。
これは、「わたしはある」とも訳せます。
ご自身で「わたしはある」と言えるのは、神であるヤハウェ(主)だけです。
6節を、“イエスが彼らに「わたしはある」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。”と訳すと、私にとっては理解しやすいです。
1コリント10:19.20には、
“19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。”(2017)と記されています。
偶像の神と言われているものに宿っているのは悪霊であるとパウロは言っています。
神に造られた被造物が、堕罪して悪霊となっているのです。
その親分が悪魔(ザ サタン)です。
サタンは、非常に高位の天使として造られました。しかし、堕罪し堕天使となり、自分に従う天使たちを引き連れて神に敵対したのです。彼らは悪しき霊として働いています。悪しき霊について、異なるタイプの者たちもいるかも知れませんが、それは想像の域を出ないので、省略します。
エジプトにおいて、ヤハウェ(主)は、10の災いをもたらしました。
それは、エジプトの神々が本物ではないことを証明するためでもありました。
イスラエルが、ヤハウェ(主)に聖戦として戦うようにと命令されている箇所が聖書にはあります。
当時の戦争は、神と神との戦争と考えられていたのです。
ヤハウェ(主)は、ヤハウェ(主)こそまことの神であることを証明していったのです。
新約(新契約)の時代に移り、パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17・新共同訳)と語りました。
「キリストの言葉」の箇所を新改訳は「キリストについてのことば」と訳し、欄外に、別訳として「キリストのことば」としています。
時代は下って、私たちは皆、自分の聖書を持つことが許されています(許されていない国の民もいます)。
私たちの信仰の始まりは、キリストのことばorキリストについてのことばを聞くことから始まる場合もあるでしょうし、聖書を読んで、という場合もあるでしょう。
まとまりのない文章になってしまいましたことをお許しください。
まことの神は、どなたなのか、
まことの神でない神を信仰しても、裁きの時には、まことの神が裁きをなさるのです(ヨハネ5:22.27)。
聖書は、まことの神についてあかしをしています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
父、子、聖霊の三位一体の神を神として認識させてくださり、まことの神様を神様として信じ歩ませて頂けておりますことを感謝します。
まことの神様に、賛美と誉れと栄光と力が代々限りなくありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。